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日本の資本主義の父、渋沢栄一

 2月から始まるNHK大河ドラマで渋沢栄一の生涯が放映される。明治維新という激動の時代に生きて、500を超える企業を作り、実業のみならず数々の社会貢献活動の礎を築き、かのドラッカーまでが日本人で唯一書籍中に取り上げた偉人だ。 
 どのような考え方をもって生きていたのか、興味がつきない。そこで何度か渋沢栄一の著書である「論語と算盤」を読んだ。この本と、ある別の本を読むまでは、私は論語を誤解していた。かつて中国の山東省曲阜にある孔子廟も訪ねてみたことがある。すごく大きな墓で、中国人の精神の拠り所なのだなということは分かったが、それは孔子が儒教を広めたからだろうと勘違いしていた。しかし、儒教と、孔子や論語とは全く関係がない。
 それが分かったのは、PHP新書、石平著、『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』、からだ。それによると、「結局のところ、漢代に成立した儒教は、孔子と論語の思想を継承した云々というよりも、むしろ孔子の名声を悪用して、孔子・論語とはほとんど関係のないところで自分たちの教学を作り上げただけのことである」また、「南宋時代に成立した朱子学と礼教にしても、後世にいうところの儒学・儒教は、孔子および論語とはまったく別のものであることは明々白々である。」
 渋沢栄一の「論語と算盤」の中にもその指摘がある。「これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人染みた人の行なうべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは、仁義道徳を外(よそ)にしても構わぬといふに帰着するのである。かくのごときは、決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛(びんらく)派の儒者によって捏造された妄説に外ならぬ。しかるにわが国では元和寛永の頃より、この学説が盛んに行なわれ、学問といえば、この学説より外にはないというまでに至った。」
 このことが分かり、私は論語を読み返した。しかし、なお論語が実業と結びつくことは分からない。渋沢栄一は、どう論語を読んだのだろうか。

 「論語と算盤」には次のような記述がある。『自分は常に事業の経営に任じては、その仕事が国家に必要であって、また道理に合するようにして行きたいと心掛けて来た。たといその事業が微々たるものであろうとも、自分の利益は少額であるとしても、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで事に任じられる。ゆえに余は論語をもって商売上の「バイブル」となし、孔子の道以外には一歩も出まいと努めて来た。それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなければならぬということを常に心していた。』
 『道理は天における日月のごとく、終始昭々乎(しょうしょうこ)として、毫(ごう)も昧(くら)まさざるものであるから、道理に伴って事をなす者は必ず栄え、道理に悖(もと)って事を計るものは必ず亡ぶることと思う。一時の成敗(せいはい=成功と失敗)は長い人生、価値の多い生涯における泡沫のごときものである。しかるにこの泡沫のごときものに憧憬れて、目前の成敗のみを論ずる者が多いようでは、国家の発達進歩も思いやられる。宜しくそのような浮薄な考えは一掃し去りて、社会に処して実質のある生活をするが宣い。苟(いやしく)も事の成敗以外に超然として立ち、道理に則って一身を終始するならば、成功失敗のごときは愚か、それ以上に価値ある生涯を送ることができるのである。況(いわ)んや成功は人たるの務めを完(まっと)うしたるより生じる糟粕たるにおいては、なおさら意に介するに足らぬではないか』
 なんと成功が糟粕(そうはく)、つまり酒のかす、残りかすであり、そのようなものは意に介せず、道理に則って一身を終始する人たるの務めが重要だと説いているのである。今年はテレビに刺激されながら、論語に基づく生き方を心掛けてみたい。

 

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税理士・中小企業診断士 安部 春之