《日 時》 平成25年3月25日(月)
《講 師》 前兵庫県知事 貝原 俊民 氏 
《テーマ》


〜 阪神淡路大震災を振り返って〜

リーダーとして、危機に直面したとき取るべき行動・覚悟

1.はじめに

 貝原先生は、震災発生時の行動に対して、マスコミにたたかれましたが、被災者の心情を考え、反論することなく、政務にあたられました。その時の行動・覚悟について、お話をしていただきました。


2.震災発生時から数時間の行動

 1995年1月17日午前5時46分震災発生。震災発生時、外は真っ暗であった。中央区中島町にある知事公舎で妻と寝ていた。突き上げるような上下動でたたき起こされた。相当ひどい揺れであったが、新神戸から神戸大学山手は、倒壊した家屋はなく、大被害が出ていると察知できなかった。
 6時過ぎ頃から、知人に電話をかけ情報収集を始めた。姫路・京都・三田各方面に連絡を取ると、相当揺れたが、ほとんど被害はないということだった。警察・消防とは連絡がつかず、これらの情報を基に、状況分析を行った。県の防災計画では、神戸で地震が起きるのは、@南海トラフA山崎断層B枚方断層の3つの震源を想定していた。姫路、京都は大丈夫であったため、@が原因と判断し、和歌山・大阪で大きな被害が発生しているのではないかと判断していた。
 6時半頃になっても、バスや車は走っておらず、外は静か遠くでは煙が上がっている。異常な事態が発生しているのではないかと認知した。県庁へ登庁する準備をしたが、携帯電話のない時代、指揮官と連絡が取れないのは、一番避けるべきと判断し、登庁せず、知事公舎で待機していた。
 6時50分頃、東灘区にいる副知事から知事公舎に連絡が入った。東灘区の被害は大きく、災害対策本部を設置する必要があると判断し、指示を出した後、登庁した。8時20分対策本部会議を開いたが、参集できたのは、21名の本部員のうちたった5名だけであった。


3.リーダーとしての覚悟

 10時過ぎ、自衛隊派遣要請を行った。自衛隊の派遣要請には、災害の状況や派遣を要する期間、活動内容といった事項を記載した書類を提出する必要があった。あいまいな要請では、自衛隊は出動できない。連絡手段が絶たれた状態で、情報を入手することもできず、制度の趣旨からすると、不十分な状態で派遣要請をしたことになる。
 マスコミからは、自衛隊の派遣要請が遅かったのではないかとたたかれたが、言い訳をしなかった。言い訳をしても、自己の弁護に過ぎない。被災者に申し訳ない。私としても、知事公舎を県庁の近くに作っておけばよかった。宿直職員を置いておけばよかった等反省すべき点も多いからだ。
 危機に直面した時、法律・制度に縛られて行動すべきではない。通常、ボトムアップが一般的であるが、部下からの情報を待っていても、いつまで経っても情報が入ってこない。トップが指揮するしかない。危機は、通常と異なる事態で発生するのであるから、それへの対応は通常許されないようなことを実行しなければならない場合もある。手続き自体逸脱しなければ効果的な対応はできない場合もある。どのように行動すべきか判断材料がすべて揃うとは限らない。リーダーたるもの独断と偏見で正しいと思ったことを行い、それが間違っていたら、自ら責任をとる。これが、長のとるべき態度ではないか。



4.判断軸をどうするか

 会社においても同じだ。目先のことだけで判断するのではなく、あるいは、常識的な判断をするのではなく、時には冷酷な判断も必要になってくる。後からみると、もっと他にこういうやり方があったのではないかと批判されることもあるが、自己の利害を考えるのではなく、本当に必要なことは何か、リーダーたるものは独断と偏見で正しいと思ったことを行い、間違っていたら、自ら責任をとる。覚悟を決めることによって、道は開けてくる。

 貝原先生に、貴重なお話をしていただき、時間が本当に短く感じられました。                                            



記事担当 保井 良美
 
 
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